名古屋地方裁判所 平成元年(ワ)1380号 判決
岐阜県益田郡下呂町東上田一八八六番地
原告
合資会社下呂膏社
右代表者無限責任社員
吉田正弘
右訴訟代理人弁護士
名倉卓二
右輔佐人弁理士
後藤憲秋
名古屋市西区児玉一丁目六番一〇号
永楽ビル
被告
愛知奥田家下呂膏販売株式会社
右代表者代表取締役
伊東誠
岐阜県益田郡下呂町東上田四一七番地
被告
株式会社奥田又右衛門膏本舗
右代表者代表取締役
伊東誠
岐阜県益田郡下呂町森二八番地
被告
奥田家下呂膏販売株式会社
右代表者代表取締役
伊東千代子
被告ら訴訟代理人弁護士
小坂重吉
同
山崎克之
同
田中俊夫
被告ら訴訟復代理人弁護士
町田正裕
被告ら輔佐人弁理士
佐々木弘
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は、原告の負担とする。
事実及び理由
第一 請求
被告らは、別紙第一目録記載の各標章を付した膏薬を製造若しくは販売し、又は、その包装若しくは広告に前記標章を使用してはならない。
第二 事案の概要
一 請求の原因
1 原告は、次の商標(以下「本件登録商標」という。)の商標権を有している。
出願日 昭和四五年一二月一一日
登録日 平成元年三月二七日
登録番号 二一二七八八九号
指定商品 膏薬
商標 別紙第二目録記載のとおり。
2 被告らは、別紙第一目録記載の各標章(以下これらを総称して「イ号各標章」という。また、別紙第一目録記載の標章(一)を「イ号標章(一)」、同目録記載の標章(二)を「イ号標章(二)」、同目録記載の標章(三)を「イ号標章(三)」、同目録記載の標章(四)を「イ号標章(四)」という。)を付した膏薬を製造販売するとともに、その包装及び広告にイ号各標章を使用している。
3 イ号各標章は、本件登録商標と類似する。
4 よって、原告は、本件登録商標の商標権に基づき、被告らによるイ号各標章を付した膏薬の製造及び販売並びにその包装及び広告におけるイ号各標章の使用の差止めを求める。
二 請求原因に対する認否
1 1の事実は認める。
2 2の事実のうち、被告株式会社奥田又右衛門膏本舗(以下「被告本舗」という。)が、包装にイ号各標章を付した膏薬を製造し、他の二名の被告が、これを販売していることは認め、その余は否認する。
3 3は認める。
4 4は争う。
三 抗弁
1 被告らによる登録商標の使用
(一) 被告本舗は、次の商標(以下「被告登録商標」という。)の商標権を有している。
出願日 昭和五五年一月二八日
登録日 昭和五九年一〇月三一日
登録番号 一七二七一一六号
指定商品 膏薬
商標 別紙第三目録記載のとおり。
(二) イ号各標章は、被告登録商標に、本件登録商標との混同を防ぐための表示である「奥田家」を付加したものであるから、イ号各標章は、被告登録商標と同一のものである。なお、イ号各標章中には、文字部分が活字体のものや横書きのものがあるが、文字部分を筆記体から活字体にしたり、縦書きを横書きにしたとしても、商標の同一性は失われない。
(三) したがって、被告らによるイ号各標章の使用は、被告登録商標の使用であるということができるのであり、被告本舗は、被告登録商標の商標権者として、他の二名の被告は、被告本舗から被告登録商標の使用許諾を受けた者として、イ号各標章を使用している。
2 先使用権
(一) 五代目奥田又右衛門(以下「五代目又右衛門」という。)は、広く名を知られた接骨師であったところ、五代目又右衛門は、昭和九年ころから、奥田家家伝の膏薬を近代化した「東上田膏」を製造販売していた。
(二) 五代目又右衛門の子である六代目奥田又右衛門(以下「六代目又右衛門」という。)は、戦後、「東上田膏」を「下呂膏」と改称して製造販売することとし、昭和二四年四月一五日付けで、厚生大臣に対し、「下呂膏」についての公定書外医薬品製造許可申請書及び医薬品製造業登録申請書を提出し、昭和二五年三月二〇日に医薬品製造業登録票、同年四月三日に公定書外医薬品製造許可証のそれぞれ交付を受けた。そして、六代目又右衛門は、「下呂膏」を製造し、奥田又右衛門の名の下に販売してきた。
(三) 吉田新蔵(以下「新蔵」という。)は、六代目又右衛門が「下呂膏」の製造を開始した当初は、六代目又右衛門の従業員であったが、その後、その力量を認められて、六代目又右衛門を委託者、新蔵が設立した原告を受託者とする「下呂膏」の製造販売委託契約に移行した。その契約の内容は、次のとおりである。
〈1〉 委託期間は定めない。ただし、受託者に背信行為があったときは、委託者は、契約を解除することができる。
〈2〉 受託者は、毎年一定量の「下呂膏」を委託者に納付する。その余の「下呂膏」は、受託者において自由に販売し、その利益を報酬として得ることができる。
〈3〉 委託業務を遂行するのに必要な費用は、すべて受託者の負担とする。
〈4〉 受託者は、委託者から報告を求められたときは、随時報告を行う。
〈5〉 受託者は、「下呂膏」の製造については、委託者の指示に従うとともに、委託者の承諾を得ることなく、他の製品を製造してはならない。
(四) 原告は、右契約に従って、「下呂膏」を製造し、奥田又右衛門の名の下に別紙第二目録記載の標章(以下「本件標章」という。)を使用して販売してきた。
(五) その結果、本件登録商標の出願日(昭和四五年一二月一一日)までには、本件標章は、六代目又右衛門の製造販売に係る膏薬を表示するものとして、需要者の間に広く知られるようになった。
(六) 六代目又右衛門は、昭和四七年九月一三日に死亡した。六代目又右衛門の子である七代目奥田又右衛門(以下「七代目又右衛門」という。)は、六代目又右衛門が行っていた「下呂膏」の製造販売の事業を、相続により承継し、さらに、昭和四七年一二月六日に設立された被告本舗が、七代目又右衛門から右事業を承継した。そして、被告本舗は、昭和四八年九月一〇日に医薬品製造業の許可を得、以後、イ号各標章を包装に付した膏薬を製造している。
(七) イ号各標章は、商標法三二条二項の趣旨に従い、本件標章に、商品の混同を防ぐための表示である「奥田家」を付加したものであるから、イ号各標章は、本件標章と同一のものである。なお、イ号各標章中には、文字部分が活字体のものや横書きのものがあるが、文字部分を筆記体から活字体にしたり、縦書きを横書きにしたとしても、商標の同一性は失われない。
(八) 以上のとおり、被告本舗は、イ号各標章について先使用権を有している。
3 権利濫用
原告が、本件登録商標の商標権に基づき、被告らに対して、イ号各標章使用の差止めを求めることは、次のような事情からすると、権利の濫用に当たる。
(一) 「下呂膏」の製造販売の事業は、新蔵の単独事業ではなかった。
(二) 「下呂膏」は、広く名を知られた接骨師であった五代目又右衛門の跡を継いだ六代目又右衛門の診療所において使用されている薬であるからこそ、人々の信頼を得ることができたものである。そして、被告本舗は、六代目又右衛門の事業を承継した。
(三) 新蔵は、別紙第四目録記載の標章について、商標登録の出願をし登録を受けているが、この標章中の図形は、奥田家に伝わる「狐の恩返し」の伝説に由来するものである上、五代目又右衛門が東上田膏を製造販売していたときから使用していたものである。このように、新蔵は、奥田家の周知商標が自己の商標であるとして商標登録を受けている。さらに、原告は、奥田又右衛門や東上田膏の著名性に便乗した「奥田膏」等の多くの商標登録の出願をしている。本件登録商標の出願も、これらの奥田又右衛門等の名称に便乗した商標登録の出願の一環としてされたものである。これに対し、被告本舗は、六代目又右衛門の事業を承継している。
(四) 被告本舗は、被告登録商標の商標権者であり、他の二名の被告は、被告本舗から被告登録商標の使用許諾を受けた者である。
(五) 原告の製造販売に係る商品と被告らの製造販売に係る商品は、包装の違いなどから、市場において十分識別されており、市場の混乱は生じていない。
四 抗弁に対する認否及び反論
1 1について
(一) (一)の事実は認める。
(二) (二)は争う。イ号各標章は、被告登録商標と類似であっても、同一ではない。
(三) (三)は争う。
2 2について
(一) (一)の事実のうち、五代目又右衛門が広く名を知られた接骨師であったことは認め、その余の事実は否認する。
奥田家家伝の膏薬なるものは存在しなかった。「東上田膏」を製造販売していたのは、大前修以知(以下「修以知」という。)である。
(二) (二)の事実は否認する。
新蔵は、昭和二三年に、修以知から膏薬製造技術の伝授を受け、膏薬製造の準備をした上、昭和二五年から「下呂膏」の製造販売を開始した。「下呂膏」製造に必要な官庁の許可は六代目又右衛門の名義で得ており、また、「下呂膏」の薬袋には「製造元 奥田又右衛門」という表示があるが、これらは、新蔵が膏薬販売のために奥田又右衛門の名声を利用しようとしたものにすぎない。
(三) (三)の事実は否認する。
新蔵は、昭和二四年五月一五日、六代目又右衛門との間において、次のような内容の契約を締結した。
〈1〉 新蔵は、六代目又右衛門名義をもって監督官庁の認可を受け、下呂膏の製造及び販売をする。
〈2〉 六代目又右衛門は、新蔵の経営には何ら関与しない。
〈3〉 六代目又右衛門は、新蔵の承諾がない限り、他人に名義を貸与しない。また、同様の事業をしない。
〈4〉 新蔵は、六代目又右衛門に対し、報酬及び代償として、膏薬二万枚を無料で提供する。
(四) (四)の事実のうち、原告が、「下呂膏」を製造し、本件標章を使用して販売してきたことは認め、その余の事実は否認する。
原告は、自らの事業として、「下呂膏」を製造販売してきたものである。
(五) (五)の事実は否認する。
(六) (六)の事実のうち、六代目又右衛門が昭和四七年九月一三日に死亡したこと及び被告本舗が昭和四八年九月一〇日に医薬品製造業の許可を得た上イ号各標章を包装に付した膏薬を製造していることは認め、その余の事実は否認する。
(七) (七)は争う。
六代目又右衛門が「下呂膏」の製造販売事業を行っていたという実体がないから、七代目又右衛門や被告本舗が、その事業を承継することはない。また、仮に、七代目又右衛門が六代目又右衛門の「事業」を承継したとしても、七代目又右衛門は、何ら現実に事業を行っていないから、その「事業」を被告本舗に承継させることはできない。
(八) (八)は争う。
3 3は争う。
仮に、原告が、本件登録商標の商標権に基づき、七代目又右衛門によるイ号各標章の使用の差止めを求めることが権利の濫用になるとしても、七代目又右衛門が一株主となっているにすぎない被告らによるイ号各標章の使用の差止めを求めることが権利濫用となることはない。
第三 証拠
本件訴訟記録中の証人等目録及び書証目録の記載を引用する。
第四 当裁判所の判断
一 請求原因について
1 1の事実(原告が本件登録商標の商標権者であること)は、当事者間に争いがない。
2 2の事実(被告らによるイ号各標章の使用)のうち、被告本舗が、包装にイ号各標章を付した膏薬を製造し、他の二名の被告が、これを販売していることは当事者間に争いがなく、また、証拠(乙三五)によると、被告本舗は、包装にイ号各標章を付した膏薬を販売していることが認められる。その余の事実については、これを認めるに足りる証拠がない。
3 3(本件登録商標とイ号各標章が類似していること)について
本件登録商標とイ号各標章を対比すると、次のようにいうことができる。
(一) イ号標章(一)は、本件登録商標と同一書体の同一文字(「下呂膏」)とその右上横に記載された「奥田家」からなるものであるが、「下呂膏」は、後記三認定のとおり、昭和二五年以来長年にわたって販売されてきた膏薬であって、その名は広く知られていたのに対し、「奥田家」は、その膏薬の由来又は製造、販売者を示す付加的な部分にすぎないということができるから、イ号標章(一)は、「下呂膏」という部分が本件登録商標と書体及び文字が同一である以上、本件登録商標と類似しているということができる。
(二) イ号標章(二)は、本件登録商標と同一書体の同一文字(「下呂膏」)を横書きにしたものと、「奥田家」、「MEDIKAL PLASTER」及び「OKUDAKEGEROKO」からなるものであるが、この中で最も看者の注意を引く部分は、文字の大きさ、漢字とローマ字の違い及び右(一)で述べたとおり「奥田家」が付加的な部分であることからすると、「下呂膏」という部分であることは明らかであり、この部分について本件登録商標と書体及び文字が同一である以上、本件登録商標と類似しているということができる。
(三) イ号標章(三)は、本件登録商標と同一文字(「下呂膏」)を横書きにしたものとその前の「奥田家」からなるものであるが、右(一)で述べたとおり「奥田家」は付加的な部分であるということができるから、最も看者の注意を引く部分は「下呂膏」という部分であり、この部分の文字が本件登録商標と同一である以上、本件登録商標と類似しているということができる。
(四) イ号標章(四)は、本件登録商標と同一書体の同一文字(「下呂膏」)に、それよりもかなり小さい文字の「奥田家」を付加したにすぎないから、本件登録商標と類似しているということができる。
二 抗弁1(被告らによる登録商標の使用)について
1 (一)の事実(被告本舗が被告登録商標の商標権者であること)は、当事者間に争いがない。
2 (二)(被告登録商標とイ号各標章の同一性)について
(一) 証拠(検甲一ないし三)と弁論の全趣旨によると、被告本舗が製造し被告らが販売する製品(以下「被告製品」という。)においては、イ号標章(一)は、被告登録商標中の図形(以下「被告図形」という。)をイ号標章(一)の右横に組み合せた形で、イ号標章(二)は、被告図形をイ号標章(二)の少し間隔を置いた左横に組み合せた形で、イ号標章(四)は、被告図形をイ号標章(四)の上に組み合せた形で、それぞれ使用されていること及びイ号標章(三)は、被告図形と組み合せて使用されていないことが認められる。
(二) そこで、右使用形態を前提として、被告らによるイ号各標章の使用が被告登録商標の使用ということができるかどうかについて判断する。
〈1〉 イ号標章(四)は、被告製品における右使用形態からすると、被告登録商標に「奥田家」という文字を付加したのみで使用されているものと認められるから、被告らによるイ号標章(四)の使用は、被告登録商標の使用ということができる。
〈2〉 これに対し、イ号標章(三)は、被告図形と組み合せて使用されていない。また、イ号標章(一)は、被告製品における右使用形態からすると、被告図形の位置が、被告登録商標とは、大きく異なる。さらに、イ号標章(二)では、被告登録商標では縦書きの「下呂膏」の文字が横書きである上、被告図形の位置も、被告登録商標とは、大きく異なっている。これらの点からすると、被告らによるイ号標章(一)、(二)及び(三)の使用は、被告登録商標の使用ということはできない。
3 被告本舗は、右1のとおり被告登録商標の商標権者であり、また、弁論の全趣旨によると、被告本舗以外の二名の被告は、被告本舗から被告登録商標について使用を許諾されているものと認められるから、被告らは、被告登録商標について使用権を有する。そして、右2のとおり、イ号標章(四)の使用は被告登録商標の使用という形態で行われているものであるから、原告は、被告らに対して、そのような形態でのイ号標章(四)の使用の差止めを求めることはできない。
これに対し、右2のとおり、被告らによるイ号標章(一)、(二)及び(三)の使用は、被告登録商標の使用ということができない。
三 抗弁2(先使用権)及び抗弁3(権利濫用)について
1 事実関係
抗弁2(一)の事実のうち、五代目又右衛門が広く名の知られた接骨師であったこと、同(四)の事実のうち、原告が、「下呂膏」を製造し、本件標章を使用してその販売をしてきたこと、同(六)の事実のうち、六代目又右衛門が昭和四七年九月一三日に死亡したこと及び被告本舗が昭和四八年九月一〇日に医薬品製造業の許可を得た上包装にイ号各標章を付した膏薬を製造していることは、当事者間に争いがない。この争いがない事実に、証拠(甲五、甲六の一、二、甲七(後記2(二)のとおり真正に成立したものと認められる。)、甲一一ないし七四、甲七九、八一、八二、八六ないし八九、甲九〇の一、二、甲九二ないし九四、乙一、乙二の一、二、乙三、乙四(弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる。)、乙五の一の一ないし三、乙五の二、乙六、乙七の一ないし五、乙八の一、二、乙一〇ないし一七、二一、二二、二五、乙二六の一、二、乙二七、乙三〇の一ないし三、乙三二、三三、乙三四の一、二、乙三九、乙四三の一、二、乙四四の一ないし一〇、乙四五の一、二、乙四六、四八、五〇、五一、乙五二の一ないし一二、乙五三、五六、五八、五九、六二ないし六六、乙六七の一ないし三、乙六八、六九、乙七〇の一ないし四、乙七一ないし七三、乙七四の一、二、乙七六、八〇、八一、九三ないし九五、九八、証人奥田房子、同野中佳和、同奥田又右衛門、同都竹潔、同大前元策、同坂下輝久、原告代表者(第一回、第二回)、被告愛知奥田家下呂膏販売株式会社及び被告本舗代表者)と弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 修以知の父である大前元栄は、明治三二年に益田郡竹原村乗政(現在は下呂町乗政、以下「乗政」という。)において医院を開業した医師であり、村会議員、村長等の多くの公職を歴任した。大前元栄は、五代目又右衛門とも知合いであった。
修以知は、大正八年三月に九州薬学専門学校を卒業した薬剤師であったが、結核を患い、大正一〇年から乗政において療養していた。
(二) 五代目又右衛門は、明治一九年に生まれ、若いころから接骨業を営み、益田郡下呂町東上田(以下「東上田」という。)において医院を開業していた者であるが、その接骨術は「神技」と称せられ、広くその名を知られていた。岐阜県のみならず、近隣の県からも患者が治療を受けに来た。そして、それらの遠方から来る患者のために旅館が七軒営業していた。
(三) 修以知は、母(大前元栄の妻)ますの勧めによって、膏薬を製造する事業を始め、昭和九年ころから、東上田において、「東上田膏」という名称の膏薬を製造するようになった。修以知は、乗政地区の者を雇用して、「東上田膏」の製造を行った。
「東上田膏」は、合名会社六合社によって販売された。合名会社六合社は、修以知、五代目又右衛門、医師小池房治郎らが設立した会社であった。
「東上田膏」は、奥田家家伝の薬に修以知が改良を加えた薬であるとして、宣伝及び販売がされた。「東上田膏」の薬袋の表面には、二匹の狐を図案化して二個の正方形で囲み、二個の正方形の間に「商標」「飛州」「下呂」「奥田」の各文字を配した図形(以下「狐の図形」という。)と「奥田又右衛門創製」、「大前修以知謹製」等の記載があった。狐の図形に、奥田家の接骨術が「狐の恩返し」に由来するという伝承に基づくものである。また、右薬袋の裏面には、「奥田家家伝の薬に修以知が改良を加えた薬である」旨の記載と「奥田又右衛門謹識」、「製造者大前修以知」等の記載があった。さらに、「東上田膏」については、「奥田家家伝の薬に修以知が改良を加えた薬である」旨の新聞広告もされた。しかし、奥田家には家伝の膏薬はなく、宣伝、販売のために、五代目又右衛門の名声を利用したものであった。
修以知は、昭和一九年ころまで、右膏薬を製造する事業を行っていた。
(四) 新蔵は、福井県芦原町に住んでいたところ、昭和二三年二月、修以知との間において、修以知は新蔵に対して膏薬の製造方法を伝授し、新蔵は修以知に対し、その報酬として一万三五〇〇円を支払う旨の契約を締結し、それによって修以知から膏薬の製造方法を承継した。
そして、新蔵は、修以知から、以前膏薬の製造をしていた工場が東上田にあることを教えられ、東上田に来て膏薬の製造をすることを勧められた。そこで、新蔵は、東上田に転居し、同所にあった工場において、膏薬の製造をすることとした。
(五) 五代目又右衛門の子である六代目又右衛門は、五代目又右衛門の跡を継いだ接骨師であったが、昭和二四年五月一五日、新蔵との間において、次のような内容の契約を締結した。「下呂膏」という名称は、五代目又右衛門の妻で六代目又右衛門の母である奥田こうの発案に係るものである。
〈1〉 新蔵は、六代目又右衛門の名義をもって監督官庁の認可を得、東上田において下呂膏社を設立して、「下呂膏」の製造及び販売をする。
〈2〉新蔵は、東上田所在の六代目又右衛門所有の建物を賃借する。
〈3〉 六代目又右衛門は、下呂膏社の経営には関与しないが、下呂膏社を代表し、これの発展には全面的に協力援助する。
〈4〉 新蔵は、右〈1〉の事業を経営する報酬及び代償として、六代目又右衛門に対し、膏薬二万枚を無償提供する。
(六) 新蔵は、昭和二五年一月一五日付けで、六代目又右衛門の名義をもって、厚生大臣に対し、「下呂膏」の製造に関する公定書外医薬品製造許可申請及び医薬品製造業登録申請をした。厚生大臣は、右許可をするとともに右登録をし、同年四月三日付けで、右許可証及び登録票を交付した。
(七) 新蔵は、昭和二五年一月、修以知との間において、修以知を下呂膏社の専任薬剤師とし、新蔵は修以知に対し、これに対する昭和二五年一年分の報酬として、現金一万円を支払うとともに膏薬二三〇〇枚を無償で引き渡す旨を約した。また、新蔵は、昭和二五年一二月、修以知との間において、新蔵は修以知に対し、昭和二六年一年分の右報酬を膏薬七〇〇〇袋とする旨を約した。そして、新蔵は修以知に対し、報酬として右膏薬を交付した。以後も、新蔵は修以知に対し、毎年報酬として膏薬を交付していた。
修以知は、昭和二四年一一月に脳内出血で倒れ、それ以降は、膏薬の製造に関しては、時々助言をする程度であった。
(八) 一方、新蔵は、昭和二四年一〇月ころから、東上田所在の六代目又右衛門所有の建物(「東上田膏」の工場であった建物)において、膏薬製造の準備にかかり、原料を購入したり、従業員を雇用するなどした上、昭和二五年から「下呂膏」を製造してきた。
「下呂膏」の販売については、昭和二五年に、六代目又右衛門、新蔵、修以知、奥田孝吉、林隆の五名で「五者協定」を締結し、各々の販売区域を定めた。右協定によると、六代目又右衛門は、その診療所で販売するのみであり、他の者については、岐阜県、愛知県、長野県等において、各々の販売区域を定めた。当初は、右協定に従って販売が行われていたが、次第に六代目又右衛門と新蔵のみが販売するようになった。
(九) 新蔵は、昭和三三年一〇月一七日、原告を設立してその代表者になった。
新蔵は、昭和三四年三月一四日に死亡したが、新蔵の妻で新蔵の死後原告の代表者になった吉田キヨエらは、六代目又右衛門に対し、従来どおり契約を継続することを申し入れ、承諾を得た。そして、原告が「下呂膏」を製造し、岐阜県、愛知県及びこれらの各県に隣接する地域を中心に販売してきた。
原告は、昭和三七年に、新たに工場を建設し、そこで「下呂膏」を製造するようになった。
(一〇) 新蔵(原告設立後は原告)は、六代目又右衛門に対し、右(五)〈4〉の約定に従い、毎年「下呂膏」を無償で交付し、六代目又右衛門は、同人の診療所において、「下呂膏」を使用するとともに、患者に販売してきた。また、六代目又右衛門は、無償交付を受けても不足する分を新蔵(原告設立後は原告)から購入していた。
(二) 新蔵(又は原告)が昭和二五年ころから昭和三〇年代半ばころまで用いていた「下呂膏」の薬袋には、表面に狐の図形と「下呂膏」、「奥田又右衛門創製」、「大前修以知謹製」及び「製造元下呂膏社」の各記載が、裏面に「奥田家は大前薬学士に委嘱し、家伝の秘薬と適薬とを配合し、下呂膏と改称して発売する」旨及び「奥田又右衛門謹識」の記載並びに「製造元 下呂膏社」の記載があった。
その後、右「下呂膏」の薬袋は、表面に狐の図形と「下呂膏」及び「販売元 合資会社下呂膏社」の記載が、裏面に右の下呂膏の由来及び「奥田又右衛門謹識」並びに「製造元 合資会社下呂膏社 奥田又右衛門」の認載があるものとなったが、昭和三七年ころからは、右薬袋の表面の「販売元合資会社下呂膏社」を「発売元合資会社下呂膏社」と変え、「下呂膏」の表記に本件標章を用いるようになった。しかし、裏面の右記載は、そのままであった。
昭和四三年ころからは、右薬袋の裏面の「製造元 合資会社下呂膏社 奥田又右衛門」を「製造元 下呂膏社奥田又右衛門」と変えたものが用いられるようになった。
また、原告は、箱入りの「下呂膏」も製造販売していたが、それには、表面に、狐の図形と本件標章及び「販売元 合資会社下呂膏社」の記載が、裏面に、「製造元 下呂膏社東上田工場 奥田又右衛門」の記載があった。
六代目又右衛門は、昭和四三年ころから死亡するまで、その診療所で患者に「下呂膏」を渡す際には、右の薬袋とは異なる薬袋を用いており、その表面には、本件標章と「発売元 合資会社下呂膏社」の記載があったが、裏面の製造元の記載は、「製造元 奥田又右衛門」であった。
(一二) 原告は、昭和四一年ころから、朝日新聞、毎日新聞等の新聞や雑誌において、原告の名で「下呂膏」の広告を出してきた。昭和四一年から昭和四五年までの広告中には、原告を「製造発売元」と表示したものもあったが、多くは、原告を「発売元」と表示していた。
(一三) 原告は、昭和四五年ころから、「飛州膏」という名称の膏薬の製造販売を始めた。これに対し、六代目又右衛門は、同人に断りなく、「下呂膏」とは別の膏薬を製造販売することは許されないとして、原告代表者であった吉田キヨエらに抗議した。そこで、六代目又右衛門と原告代表者らとの間で交渉が行われ、その結果、六代目又右衛門は、昭和四六年二月、原告との間において、次のような内容の「覚書」と題する書面を交わした。
〈1〉 六代目又右衛門は、原告の相談役に就任するが、その経営には一切権限がないものとする。ただし、「下呂膏」の品位を高揚させるために全面的に協力する。
〈2〉 「下呂膏」の製造は、原告において行い、生産量を減らさない。飛州膏は、原告において製造販売する。
〈3〉 「五者協定」で定めた「下呂膏」の販売区域内には、飛州膏の販売店は作らないし、飛州膏の宣伝販売は行わない。
〈4〉 「下呂膏」については、奥田又右衛門と新蔵との間に締結されている契約に準じ、今後なお一層の努力をする。
(一四) 六代目又右衛門の時代にも、奥田又右衛門の接骨師としての名声は保たれ、下呂町やその近隣の町のみならず、岐阜県、愛知県及びこれらの各県に隣接する地域から多く患者が来ていたが、六代目又右衛門は、昭和四七年九月一三日に死亡した。製造許可を受けていた六代目又右衛門が死亡したため、「下呂膏」は、製造することができなくなった。
(一五) 六代目又右衛門の子で七代目又右衛門の名を継いだ奥田弘正(七代目又右衛門)は、六代目又右衛門の死後、その診療所の業務を受け継ぎ、今日まで診療所を経営している。また、七代目又右衛門は、六代目又右衛門の死後、原告との間で本件標章の使用等について交渉をした。その際、原告は、原告が新たに製造許可を取得し、本件標章を使用して「下呂膏」を製造販売すること、原告は、七代目又右衛門に対して、診療所で使用する場合に限り本件標章の使用を認めること、七代目又右衛門を原告の相談役とし、原告は七代目又右衛門に対し膏薬を無償で提供すること等を内容とする提案をしたが、これを七代目又右衛門の側が拒否したため、話合いは決裂した。そこで、七代目又右衛門は、伊東誠らとともに出資して、昭和四七年一二月六日に被告本舗を設立した。そして、被告本舗は、東上田に工場を建設した上、昭和四八年九月一〇日には医薬品製造業の許可を取得し、同年から、包装にイ号各標章を付した膏薬を製造している。
被告本舗は、昭和四七年一二月六日に、七代目又右衛門との間において、七代目又右衛門は被告本舗に商標「下呂膏」を使用して膏薬を製造販売することを認めること及び被告本舗はその使用料として七代目又右衛門に対し一年間に膏薬三万枚を無償で提供することなどを内容とする契約を締結し、以後、被告本舗は、七代目又右衛門に対し右膏薬を無償で提供している。
(一六) 一方、原告は、昭和四八年八月二九日に、「下呂膏」について製造品目の追加許可等を取得し、同年から、従来から使用してきた工場において、包装に「下呂膏」の標章を付した膏薬を製造販売している。
2(一) 右1認定のとおり、戦前製造販売されていた「東上田膏」は、修以知が開発し、同人が製造していた膏薬であることが認められる。
被告は、もともと奥田家には同家伝来の膏薬が存し、五代目又右衛門は、それをもとにした膏薬を、「東上田膏」の名称で製造していた旨の主張をする。しかし、奥田家伝来の膏薬はなかった旨の証人奥田房子の証言(乙八二号証中の同人の供述は右証言の信ぴょう性を覆すに足りない。)や同旨の証人大前元策の証言に照らすと、奥田家には、同家伝来の膏薬というようなものは存しなかったものと認められる。そして、このことに、右1(三)認定の薬袋には製造者として修以知の名が記載されていることや「東上田膏」を製造していたのは修以知である旨の証人大前元策の証言及びこれと同旨の甲八九号証の記載を総合すると、「東上田膏」を製造していたのは、五代目又右衛門ではなく、右認定のとおり修以知であると認めることができる。
(二) 右1認定のとおり、戦後、新蔵が、修以知から膏薬の製造法の伝授を受け、この膏薬を「下呂膏」として製造販売してきたこと、原告設立後は、原告が、新蔵の事業を受け継いで、「下呂膏」を製造販売してきたことが認められる。
被告は、右1(五)認定の契約の契約書(甲七)は、真正に成立したものでない旨主張する。しかし、右1(一三)認定の六代目又右衛門が昭和四六年二月に原告との間において交わした「覚書」には、六代目又右衛門は「下呂膏」製造に関する経営には関与しないが「下呂膏」の発展には協力する旨の右の契約書と同旨の約定がある上、右の契約書の契約以外に右覚書において言及されている「奥田又右衛門と新蔵との間に締結されている契約」があるとは認めることができないから、六代目又右衛門は、右の契約書(甲七)の存在を認識し、これを容認していたものと推認することができるのであり、この点と、右の契約書(甲七)自体に特段不自然なところがないことを併せ考えると、右の契約書(甲七)は、真正に成立したものと認められる。なお、被告は、当時下呂において接骨師として高名であった六代目又右衛門が、福井県から来た「よそ者」である新蔵との間において、右1(五)認定のような名義を貸す旨の契約を締結することは不自然である旨主張する。しかし、右認定のとおり、奥田家伝来の膏薬というようなものはなく「東上田膏」も又右衛門の名義を借りて製造されていたものであること、六代目又右衛門としては自分のところで使用する膏薬を確実に確保するために、膏薬製造の資金や技術を有する者(右1認定の事実からすると、新蔵はそのような者であったことが認められる。)に名義を貸して膏薬の供給を受けようと考えたとしても何ら不自然ではないことからすると、右(五)認定の契約も不自然なものということはできない。
(三) 以上のとおり、新蔵及び原告は、自らの事業として、「下呂膏」を製造販売してきたものであるから、これらの者が六代目又右衛門の委託によって、六代目又右衛門の事業として、「下呂膏」を製造販売してきたものと認めることはできず、そのような事実を前提として、六代目又右衛門が本件標章を使用してきた旨の被告らの主張は失当である。
もっとも、右1認定のとおり、六代目又右衛門は、昭和二五年ころから、自らの診療所において、「下呂膏」を販売してきたものである。そして、昭和二五年ころから昭和四三年ころまでの間については、診療所用の薬袋があったことを認めるに足りる証拠はないので、六代目又右衛門は、原告が用いていたものと同じ薬袋を用いていたと推認することができるところ、その薬袋には、右1(二)認定のとおり、「下呂膏」の標章(昭和三七年ころからは本件標章)が付されている。また、昭和四三年ころからは、六代目又右衛門は、右1(二)認定のとおり、本件標章が付された診療所用の薬袋を用いていたものと認められる。したがって、六代目又右衛門は、昭和二五年ころから、本件標章を含む「下呂膏」の標章を使用していたということができる。
(四) そこで、次に、本件標章を含む「下呂膏」の標章が六代目又右衛門の業務に係る商品を表示するものとして需要者の間において広く認識されていたかどうかについて判断する。
〈1〉 右1認定のとおり、六代目又右衛門は、新蔵から供給を受けて、昭和二五年から、同人の診療所において、「下呂膏」を販売していたのであるが、(ア)「下呂膏」は六代目又右衛門の名義で製造許可を受けたものであること、(イ)「下呂膏」という名を付けたのは奥田家の側(奥田こう)であること、(ウ)「下呂膏」の薬袋には、奥田家伝来の膏薬を奥田又右衛門が「下呂膏」という名を付けて発売する旨の記載があり、奥田家の伝承に由来する狐の図形が付されていたこと、(エ)昭和三〇年代の半ばころまで「下呂膏」の薬袋には、「下呂膏社」の製造に係るものである旨の記載があったが、六代目又右衛門と原告との右1(五)認定の契約では、六代目又右衛門は、「下呂膏社」を代表するとされていたことを総合すると、六代目又右衛門は、同人の診療所において「下呂膏」を販売する際には、自らの製造販売に係るものとして、「下呂膏」を販売していたものと認めることができるから、この場合において、「下呂膏」の標章が、六代目又右衛門の業務に係る商品を表示するものとして用いられていたことは明らかである。
〈2〉 一方、新蔵も、昭和二五年から、自ら製造した「下呂膏」を販売していたのであるが、右〈1〉(ア)ないし(エ)認定の事実からすると、新蔵は、実際は自分が製造販売しているにもかかわらず、奥田又右衛門の名声を利用する目的で、奥田又右衛門の診療所で使用している奥田家伝来の膏薬を奥田又右衛門において「下呂膏」という名を付けて製造販売しているものであるとの表示をして販売していたものということができるから、この場合においても、「下呂膏」の標章は六代目又右衛門の業務に係る商品を表示するものとして用いられていたものと認めることができる。
〈3〉 右1認定のとおり、その後、昭和三〇年代の半ば以降本件登録商標の出願時までの間においては、「下呂膏」は、薬袋や箱に、「販売元 合資会社下呂膏社」又は「発売元 合資会社下呂膏社」及び「製造元 合資会社下呂膏社 奥田又右衛門」、「製造元 下呂膏社奥田又右衛門」、「製造元 下呂膏社東上田工場 奥田又右衛門」又は「製造元 奥田又右衛門」という記載をして販売されていたことが認められるが、(ア)右〈1〉認定のとおり、「下呂膏」の標章は、それ以前の時期において六代目又右衛門の業務に係る商品を表示するものであったこと、(イ)右の時期においても、六代目又右衛門の名で「下呂膏」の製造許可を受け、薬袋に、奥田家伝来の膏薬を奥田又右衛門が「下呂膏」という名を付けて発売する旨の記載をして販売している等の右〈1〉〈2〉で認定した事情に基本的な変化がないこと、(ウ)製造者の表示には、一時期原告の名が入っているものがあるものの、その表示には、いつの時期においても必ず奥田又右衛門の名が入っていること、(エ)販売元又は発売元については、原告の名が記載されているが、右(ア)ないし(ウ)認定の事実からすると、右原告名の表示から、原告が「下呂膏」を自らの商品表示として使用しているとまでの認識は生じない(言い換えるならば、原告は、単に奥田又右衛門の製造に係る「下呂膏」を販売する者であるとの認識しか生じない)ことを総合すると、右の時期においても、本件標章を含む「下呂膏」の標章は、六代目又右衛門が診療所において販売するものはもとより、原告が販売するものについても、六代目又右衛門の業務に係る商品を表示するものとして需要者の間に認識されていたものと認めるのが相当である(ただし、右1(一二)認定の広告については、後記〈5〉のとおり。)。
〈4〉 したがって、本件標章を含む「下呂膏」の標章は、六代目又右衛門の業務に係る商品を表示するものとして需要者の間において認識されていたものと認められる。
そして、右1認定の事実に弁論の全趣旨を総合すると、六代目又右衛門は、昭和二五年ころから、岐阜県、愛知県及びこれらの各県に隣接する地域から来る多くの患者に対して、「下呂膏」の標章(昭和三七年ころからは本件標章)を付した包装に入れて膏薬を販売し、一方、原告も、岐阜県、愛知県及びこれらの各県に隣接する地域において、「下呂膏」の標章(昭和三七年ころからは本件標章)を付した包装に入れて膏薬を販売し、その結果、本件標章を含む「下呂膏」の標章は、本件登録商標の出願時に、岐阜県、愛知県及びこれらの各県に隣接する地域において、六代目又右衛門の業務に係る商品を表示するものとして需要者の間において広く認識されるようになっていたものと認めることができる。
〈5〉 なお、右1(一二)認定のとおり、原告は、昭和四一年ころから、原告を「下呂膏」の「製造発売元」又は「発売元」と表示して、「下呂膏」の広告をしていることが認められるが、「下呂膏」の標章は、右認定のとおり、昭和二五年ころから長年にわたって六代目又右衛門の業務に係る商品を表示するものとして認識されてきたものであり、薬袋や箱の記載も右認定のとおりである上、六代目又右衛門が診療所で使ったり販売していることが「下呂膏」の信用の基礎となっているとの事情が存するから、約四年間の右広告の事実から、本件標章を含む「下呂膏」の標章が、本件登録商標の出願時に、原告の業務に係る商品を表示するものとして需要者の間において広く認識されるようになったとまで認めることはできない。そして、他にこの事実を認めるに足りる証拠はない。
(五) 次に、本件標章が、六代目又右衛門の業務に係る商品を表示するものとして需要者の間において広く認識されるようになったことと六代目又右衛門による右標章の使用との因果関係について判断するに、右(四)のとおり、本件標章が、六代目又右衛門の業務に係る商品を表示するものとして需要者の間において広く認識されるようになったのは、六代目又右衛門による「下呂膏」の使用販売のみによるものではないが、六代目又右衛門は、著名な接骨師で、右(四)のとおり、広い地域から来る多くの患者に対して、昭和二五年ころから「下呂膏」の標章を付して膏薬を販売していたものであり、原告による販売も前示のとおり六代目又右衛門との契約に基づくものであったことからすると、本件標章は、六代目又右衛門の使用によって六代目又右衛門の業務に係る商品を表示するものとして需要者の間において広く認識されるようになったものと認めることができるから、右因果関係を認めることができる。
(六) また、六代目又右衛門による本件標章の使用が不正競争の目的によるものとすべき事情を認めることはできない。
(七) 以上の次第で、六代目又右衛門は、本件標章について、先使用権を有していたものと認められる。
(八) そこで、六代目又右衛門の有していた先使用権が、被告本舗に当該業務とともに承継されたかどうかについて判断するに、右(三)認定の六代目又右衛門による本件標章の使用形態からすると、ここでいう「業務」とは、六代目又右衛門が、診療所において、本件標章を付した包装に入れた膏薬を販売することであるところ、右1(一五)認定の事実からすると、七代目又右衛門は、六代目又右衛門の診療所の業務を受け継いではいるが、それが被告本舗に受け継がれたと認めることはできないから、被告本舗が、七代目又右衛門を介して六代目又右衛門の右「業務」を承継したものと認めることはできない。したがって、六代目又右衛門の有していた先使用権が、被告本舗に承継されたとは認められないから、先使用権の主張(抗弁2)は、理由がない。
(九) 次に、権利濫用について判断する。
〈1〉 右(三)(四)で述べたとおり、本件登録商標の出願時において、本件標章は、六代目又右衛門によって使用され、かつ、その業務に係る商品を表示するものとして需要者の間において広く認識されていたのであるから、商標法四条一項一〇号の事由があり、原告は、本件登録商標について登録を受けることができなかったものである。
〈2〉 一方、右(三)(四)で述べたところに証拠(証人奥田房子)を総合すると、(ア)原告は、六代目又右衛門が自己の業務に係る商品を表示するものとして本件標章を含む「下呂膏」の標章を使用することを前提として六代目又右衛門に製品を供給するとともに、六代目又右衛門の信用を利用する目的で、六代目又右衛門の業務に係る商品を表示するものとして本件標章を含む「下呂膏」の標章を使用していたこと(したがって、本件標章を含む「下呂膏」の標章が原告の業務に係る商品を表示するものとして需要者の間において広く認識されていたとは認められない。)、(イ)六代目又右衛門及び原告の右のような「下呂膏」の標章の使用により、本件標章を含む「下呂膏」の標章は六代目又右衛門の業務に係る商品を表示するものとして需要者の間において広く認識されるに至ったこと、(ウ)原告代表者は、そのような事情を十分に認識し、本件標章について商標法四条一項一〇号の事由に該当する事実が存することを知っていたこと、(エ)それにもかかわらず、原告は、六代目又右衛門に無断で密かに本件登録商標について登録の出願をし、商標権を取得したことの各事実が認められる。
〈3〉 さらに、右1認定の事実に、証拠(証人奥田又右衛門、被告愛知奥田家下呂膏販売株式会社及び被告本舗代表者)と弁論の全趣旨を総合すると、(ア)七代目又右衛門は、本件標章を含む「下呂膏」の標章がその業務に係る商品を表示するものとして需要者の間において広く認識されていた六代目又右衛門の相続人で、六代目又右衛門の診療所の業務を承継した者であること、(イ)七代目又右衛門は、被告本舗に対し、「下呂膏」の標章を使用して膏薬を製造販売することを許諾するとともに、被告本舗から、診療所の業務で使用する膏薬三万枚を無償で供給を受ける旨の契約を締結し、膏薬の供給を受けていること、(ウ)被告本舗以外の二名の被告は、被告本舗が製造した製品の販売会社で、七代目又右衛門の許諾を受けて、被告本舗の製造したイ号各標章が包装に付された製品(膏薬)を販売していること、(エ)七代目又右衛門には、自ら膏薬を製造する能力はないから、右1(一五)認定のような経緯で原告との話合いが決裂した以上、六代目又右衛門の時代と同様に、診療所の業務で使用する膏薬を無償で安定的に確保するためには、右(イ)(ウ)のような方法を採らざるを得なかったこと、(オ)六代目又右衛門と原告との関係は、六代目又右衛門が原告に対し、一定の表示を使用して膏薬を製造販売することを認め、その代わりに診療所の業務で使用する膏薬の無償提供を受けるという関係であって、原告はその関係を承認し、それを基に利益を得て来たものであるところ、七代目又右衛門と被告らと右(イ)(ウ)の関係は、六代目又右衛門と原告との右関係と基本的に同じものであることが認められる。
〈4〉 以上述べたところを総合すると、原告が被告らに対して、本件標章及びそれに類似する標章の使用の差止めを求めることは、権利の濫用として許されないものというべきである。したがって、原告は被告らに対し、イ号各標章の使用の差止めを求めることはできない。
四 付言するに、本件においては、被告登録商標についても有効性に疑問があるところであり(甲八四における問題は、被告登録商標についても存在する。)、紛争の実態に鑑みると、原告において本件標章を使用し、被告らにおいてイ号各標章のように奥田家を付した標章を使用することとして、和解による解決を図るのが最も妥当と考えられる。
第五 総括
よって、本件請求はいずれも理由がないので、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 岡久幸治 裁判官 森義之 裁判官 田澤剛)
第一目録
〈省略〉
第二目録
〈省略〉
第三目録
〈省略〉
第四目録
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